生きたまま埋めるのはかわいそうだよ

シュールな世界観がいいね~って棒読みで言って

編集者

宮田は、急な腹痛によって駆け込んだ駅前の公衆トイレで拳銃を見つけた。拳銃は薄汚れていて、宮田の祖父の働いていた工場設備を思い出した。「触っちゃダメ、危ないから」と母に注意されたことを覚えている。何を作る設備だったかはいまでもわからない。しかし、幼い宮田の目にそれらはひどく汚らしく映ったため、母に注意されるまでもなく、端から触る気など起きなかったという記憶がある。

拳銃を手に取ってみると、ずっしりと重い。相澤はきっとこういうものに興味を示すだろう。そう判断した宮田は、本物か偽物かはわからないが、話の種として持っていくことにした。

待ち合わせ場所の喫茶店に着くと既に相澤がいた。相澤は煙草片手にノートPCを見ながらニヤついていた。宮田が近くに来ても声をかけるまで気がつかなかった。

「おう、ちょっと待ってね」

相澤はこちらを見ずに返事した。

宮田は着席し、店員にアイスコーヒーを頼んだ。描いてきたネームを取り出す。相澤が何を夢中になって見ているのかはわからないが、宮田の描く漫画より面白いと判断したことには違いないだろう。

30分が経過した。今日までに提出と言われたから、宮田は、他のやるべきことより優先して取り組んだ。だが、別段急ぎでもなかったようだ。考えてみれば、連載を持ってるわけでもないのだから当たり前か、と宮田は自嘲気味の笑みを浮かべた。大御所の漫画家が、最近休載しているため、穴埋めとして自分の漫画を載せてくれることを期待していたのだった。宮田の読みは、甘すぎた。

「いやー、これ見た?めっちゃ面白いでしょ」

そういって相澤は、ノートPCを宮田が見えるように回転させ、SNSの投稿がまとめられたページを見せた。辛口で知られる気鋭の評論家が、いつもの調子でとある映画を批判したところ、出演者の一人が評論家氏からセクハラを受けた過去を明らかにした、という騒動らしい。

宮田は率直にくだらない、と感じたが、生殺与奪権を握っているとも言える相澤には逆らうまいと判断した。

「こんなことがあるんですね」

特に自分の意見はないことを暗に示し、それとなく話題を終了させる戦略である。

しかし、相澤はその後も小一時間ほど業界ゴシップを語り続けた。全く関係なく、最近女子大生と付き合っているという自慢も挟まれた。相澤のようなつまらない三十男が女子大生と付き合っている事実は、一回り若い宮田の苛立ちを加速させた。宮田は表面的な相澤の称揚(「すごいですね」「さすがです」)を続けた。

ようやく宮田の通り一遍な褒められ方に飽きてきたのか、相澤はネームの閲覧を要求した。

相澤は、宮田の手からひったくるように紙を奪うと、めくるたびに皺をつけながら、三十秒ほどで読み終えた。

「この、やたらセリフが多いのはなんなの?」

「これは、他のみんなが達者に喋る中、主人公が一言も発することができないという描写です」

「それ説明しなきゃダメじゃない?モノローグで『どうしよう、全然喋れない』とかさ」

「他の登場人物のセリフを増やすことで、逆説的に主人公の口下手さを表現したんですが」

「そんなのわかんないよ。言われなきゃ。俺にはわからない。俺にわからないってことは読者は全員わからないよ」

「わからないかもしれませんが、主人公がモノローグで語らないということが、この漫画にとって重要なんです」

「宮田くんにとってでしょ?宮田くんの小さな小さなこだわりだ」

「細部がリアリティを生むと僕は考えます」

「そんなことは、俺だって知ってるよ。バカにしてんの?」相澤は声を荒げた。

「『物語の展開がどうこうじゃない。細かいディテールが重要なんだ』っていうのはちょっと勉強したつもりのやつが、口を揃えていうことなんだよね。でも、大衆を意識した漫画で、それに囚われるあまり、物語が伝わりづらくなってるのはどうなの?細部はあくまで明確な物語的展開を前提としているんだよ。それをわからないで、『このディテールは譲れない』とかほざくのはオナニーだね。そんなだから、いつまでたっても読み切りすら載らないんだよ、おまえは」

宮田の沈黙をよそに、相澤は続けた。

「君が漫画を描かなくても他に描くやつはいくらでもいる。金を払ってでも漫画を描きたいやつが世の中には腐るほどいる。その事実をよく噛み締めることだよ。俺は君にチャンスを与えたんだ。君がそれを棒に振ろうというなら、止めはしない。俺みたいな良心的な編集者じゃなきゃ、君の漫画なんて読みすらしないだろうけどね。こっちは親切心で、ダメ出ししてあげてるんだ。漫画家と編集者も人と人との付き合いだからね。編集者のいうことにはちゃんと耳を傾ける。そういう最低限の礼儀がなってない人とは仕事したくないね。俺は」

宮田はバッグから拳銃を取り出し、立ち上がり、相澤に向けた。そして引き金を引いた。弾丸は相澤の腹部に命中した。

多量の出血により、相澤は死んだ。

会社を早退して家に帰ると、男が私のパンツを洗濯ばさみから取り外していた。真昼の日差しの中で逆光の男は、ミレーの絵のようにも見えた。怖かったので見守っていた。

それからというもの、街や社内で男の人を見るたび、それぞれが、パンツを盗む可能性を孕んでいると考えてしまうようになった。少し寒気がする。

私は、昔から色白で、病弱で、自分の意見をはっきりと言うことが苦手だったため、そういう弱さを好む人々を引き寄せる傾向にあった。以前はそのことで、好きでもない人と友達や恋人になることもあり、面倒だった。しかし、弱さが人を惹きつけることを自覚するようになってからは、嫌じゃない人だけを周りに置いておけるようになった。

パンツ泥棒は久しぶりに、私が日々自らの手で作り上げている心理的境界を、やすやすと乗り越えてきた存在だった。

会って寝たり寝なかったりする男らとの関係も、薄ら寒いものに思えて、連絡を断つと、人並みに寂しくもあり、学生時代の女友達の一人に声をかけた。近いうちに二人で食事でも、ということになった。

彼女の名前は京と書いてみやこと読んだ。京とは大学のゼミで知り合ったのだが、他人の気持ちを受け止めて肯定するのがとても上手な人だった。京とともに時を過ごすのは楽しかった。ただ、そう思うのは私だけではなかったので、彼女の予定は埋まっていることが多かった。こちらから連絡しないとまず会えない。

待ち合わせ時間に20分遅れて京はやってきた。

私はあまり酒を飲む方ではないが、美味しい料理と、楽しそうに飲む京の笑顔につられて、たくさんワインを注文してしまった。

店を出るころには足元がおぼつかなくなっていて、京に腰を抱かれる形になった。

目を覚ますと、目の前に京の顔があった。私はどこかの家のベッドに横たわっていた。

「おはよう、気分はどう?」

「うん、ここ京ちゃんの家?」

「そうだよ」

「ごめんね、迷惑かけて」

私は、さっきまで気分良く酔っていたのに、急に酔いが覚めたから、この世の終わりのように虚しくなってしまった。京にも申し訳ない気持ちでいっぱいになり、涙が溢れてきた。

「ごめんね」

「大丈夫、大丈夫だよ」

京は親指の腹で私の涙を拭ってから、頬にキスをした。それから、唇にもした。私が少し怖いような気持ちになっていると、「きいちゃん、大好き」と私の名を呼んだ。首筋にキスをしながら服の下に手を入れ、背中側のホックを外そうとした。

「京ちゃん、だめ」

京は聞こえなかったのか、聞こえないふりをしたのか、手を止めなかった。私は力いっぱい京を突きとばした。京はベッドから床に落ちた。跨ごうとする私の足首は、京の手に掴まれた。「きいちゃん!」私は京の手を蹴って、靴に足を突っ込んだ。京が何か言っていたが、聞くより早く部屋を飛び出していた。夜道をしばらく駆けてからふと、ここがどこだかわからないことに気づいた。

それから私は、同僚の男と寝た。次の週は、後輩の男の子と寝た。社内で私と話をする人は、たとえそれが全く業務的な事項にすぎなくとも、私の素行について思い浮かべずにはいられないようだった。先輩の女性にはっきりと釘を刺されもした。ある日、ふとした拍子に手のひらからこぼれ落ちた切手が、ひらひらと宙を舞っているのを眺めているとき「辞めよう」と思った。私は会社を辞めた。

数日後、昼過ぎに目覚め、そのまま横になっていると、庭に1人の男が入ってきた。男はパンツを洗濯ばさみから取り外すと、私がいる方を見た。私がいることに気づいたようだった。男はおもむろにパンツを洗濯ばさみに付け直した。そして、また私の方を見つめてから、もう一度ゆっくりパンツを取り外した。その後、急に興味を失ってしまったのか、男はことのほかぞんざいにパンツをくしゃくしゃとポケットにしまった。こちらはとうに気づいており、向こうもそれをわかっているはずなのに、男はなぜか背中を丸め、忍び足で庭を去った。暖かい春の一日だった。

スプライト

山川はアイスコーヒーには口をつけず、溢れでる思考を漏れなく言葉に変換しようと躍起になっていた。彼が懸命であればあるほど、僕は冷めていった。

「紙幣とかコインみたいな物理的な貨幣を管理するなんてめんどくさいってことで、電子マネーが生まれる。これが『効率』ってことじゃん。だったら、毎日食べ物を補給したり、忙しく動き回れば疲弊するこの肉体くらいめんどくさいものはないよね。『効率』を重視するなら肉体なんか無くした方がいい。肉体をとっぱらってふわふわとした霊魂のようになってしまう方が楽だ」

彼は僕の中にきちんと言葉が響いてるかを確認するように首を傾げ、僕の目の奥を覗き込む。

「霊魂になっても個人の概念は残ってるかもしれない。『このふわふわ』は俺、『あのふわふわ』はおまえ、って。でも、ふわふわ同士、会話をして意見を交換するなんてめんどくさいじゃん。だから個人の概念もとっぱらっちゃって、最初っから『一つの巨大なふわふわ』であるのが、一番効率がいいと思うんだ。簡単に言えばエヴァンゲリオン人類補完計画だよね」

山川は両手を頭の後ろに回して、背を反らせた。

「つまり、なにが言いたいかって言うと、『効率』を重視して、ものごとをシンプルに研ぎ澄ませていくと、極論、人間っていらないよねって結論になっちゃうってことなのよ。おれらってめちゃくちゃ無駄の塊なんだよ」

僕は壁に掛けられた絵画らしきもの(レプリカかも)を見た。街の広場にスーツやドレス姿の人々が集っている。

「だから、おれがやっていこうと思ってるのは『つきつめない』ってこと。『要するに』とか『結局』とかいう言葉を一度飲み込むんだ。一つの結論に至ろうとしない。むしろ『散らす』んだ。余計なことをいくらでもする。それが楽しいならね」

絵画に描かれた広場にいる一人の女性の帽子が風に飛ばされている。周囲の二、三人が帽子を目で追っている。画家は、「この帽子が飛ばされる」という描写を、なぜ盛り込んだんだろうか。静物である絵画をもって、動きを表現しようという困難な挑戦なのか。

ようやく僕が会話に飽きていることに気づき始めた山川が、「そろそろ行くか」と言ってお開きになった。

近頃僕はドラムの練習に熱心だ。どこかで披露するあてもない。ただ前より叩けるようになることだけを目的にスタジオに通っている。駅前に3件くらいあるスタジオのいずれかは、当日予約なしで入れる。今日も山川と別れてからスタジオに向かう。山川が言ってたことは、結局「無駄を愛そう」みたいなありきたりな発想なのに、なにを長々と語っていたんだ。山川への苛立ちを引きずった結果、荒いプレイになってしまう。前より下手になったかもしれない。そんな疑念を拭うように懸命にドラムを叩き続けると滝のように汗が出てきた。僕はなんでこんなことを一生懸命にやってるんだろうな。スタジオから出てロビーで汗を拭いつつ、スプライトを飲む。

「あの、突然すみません。ドラマーの方ですか」二人組の女の子の一人が話しかけてきた。

「はい、そうですけど」

「あの、私たちバンドやってて、ちょうど最近ドラマーが脱けちゃったんですよ」

「はあ」

「いきなりこんなこと頼むのも失礼かもしれないんですけど、もしお時間あったらちょっと合わせてみませんか?あの、ほんとに『違うな』って思ったらすぐ脱けていただいて大丈夫なんで」

この時話しかけてこなかった方の女の子が、今の僕の妻だ。

「お姉さんはどこから来たの?」

「お姉さんはねー、お空からやってきたんだよ」

「嘘だよ。子どもだと思ってるんだ」

「嘘じゃないよ。雲の上ってめちゃくちゃ寒いんだよ。でも下に住んでる人たちが気になって、こう(身を乗り出すジェスチャー)やってたらね、ある日落っこちちゃったの」

「雲の上で生活できるわけない。雲は水蒸気でできてる」

「君は小さいのによく知ってるね」

「すぐばれる嘘つく人だいきらい!」

少年は目を見開いた。

「けんともすぐ嘘つく。あいつ変身ベルト持ってるって言ってたの。けんとんちで『変身ベルト見せてよ』って言ったら

『出すのに10分くらいかかる』って言うの。

『10分待つから出してよ』って言ったらこんどは

『やっぱり30分くらいかかるかも』って言うの。だから

『30分待つから出してよ』って言ったの。そしたら

『お母さんに出すなって言われてる』って言ったの。

ほんとは変身ベルトなんて持ってないんだよ」

「けんとくん、君の前でかっこつけちゃったんだね」

「けんとなんかどうでもいい!」

なんて気難しい子どもなんだ。いや、子ども扱いした私が悪いのか。

「嘘ついてごめんね」

「いいよもう。どっか行ってよ」

「じゃあどっか行くね」

私は腰を上げて公園を後にしようとした。

「待って」

少年は慌てて私を追いかけてきた。

「次はほんとの話してね」

少し考えてから私はほんとのことを言った。

「次なんてないよ」

少年は悲しそうな顔をした。

「嘘嘘。次会ったときはほんとの話、するからね」

ほんとの話をすると、私は埼玉から来た。生まれも育ちも埼玉だ。中学と高校は東京の女子校で6年間を過ごした。冬なのに暖かい温水プールみたいに不気味な日々だった。覚えているのは、机にスピッツの歌詞を書いているのを、一番仲がいいと思っていた同級生に笑われていたこととか、こっそり髪を脱色して登校したけど誰からも(教員にすら)指摘されなかったこととか、そんなのばかりだ。

もう全然ダメになっていた。犬だった。俺はいま一匹の犬だった。全ての屈辱を一身に受け、その顔面は卑屈に歪みきっている。だが瞳の奥の光は、まだ消えちゃいない。

「ちょっと、顔洗いたいんだけど」

横を向くと、妹がいた。自宅に一つしかない洗面台の前で、俺がモノローグをかましているところを見られてしまった。

「『瞳の奥の光は、まだ消えてない』んだ。ははははは」

「うわっ。全部言ってた?おれ」

「『俺はずぶ濡れの犬だった』とかなんとか」

「ずぶ濡れとは言ってないよ」

「いいからどいて」

こんなところで油を売っている場合じゃない。俺にはやらなきゃいけないことがある。行かなきゃいけないところがある。それは、八王子市。八王子市って一度も行ったことがない気がする。立川は何回か行ったことがある。あそこまで行くのは、軽い旅ですね。

「輝きだした僕らを誰が、止めることなど出来るだろう」

俺は鼻歌交じりにチャリを漕いで西川口駅へ向かっていた。それが全ての始まりだった、と付け足してみれば何かが始まるような気がしないでもない。

 Yと連絡が取れなくなった。考え得る連絡先は全てあたった。一度だけ彼の家に行ったことがあったから、直接訪問しようと思った。

 寒かった。一度コートを羽織って外に出たが、北風を防ぐことはできそうになかった。見栄えは悪いが防寒性に富んだダウンに着替え、駅に向かった。

 Yはどんな人間か?彼には主体性というものがなかった。いつも周りを見回して、どういった振る舞いをすることが「常識的」であるのかを測らずには、何もできない男だった。いや、こういう人物の分析の仕方は公平性に欠ける。現に、共通の知人であるBは「優しくて少し恥ずかしがりやなところがあるけど、ちゃんと自分の考えをもっている」と評していた。Yに僕がどんな人間か訊いてみるといい。「いつも周りを見回して、どういった振る舞いをすることが『常識的』であるのかを測らずには、何もできない男」だと彼は答えるだろう。そういうことだ。

 Yのことなど忘れてしまってもいいのにと思う。どんなコミュニティーに属していようが、疎外感と無縁ではいられないのがYだった。それは僕にしてもそうだ。だから余りもの同士でペアを組んだような仲がわれわれの関係といってもいいかもしれない。しかしこういった「つまはじき者のエレジー」に陶酔するのはやめよう。それに、彼を自分と同じサイドの人間としてカウントすることは、やはり失礼に当たる。今頃、僕の知らない気の合う仲間たちと楽しくやっているのかもしれない。彼と会えなくて寂しい思いをしているのは僕だけなのか。

 日中のデパートに用のある二十代の若者などそう多くはないだろう。女児向けのアーケードゲームに勤しむ者は別だろうが。もっともこのデパートで、女児向けアーケードゲームに女児以外が居座っているさまを目にしたことはない。地方都市までわざわざ遠征する数寄者もいないということか。この街には行くところがないから、こういうところについ脚を運んでしまう。今日は暇を持て余して立ち寄ったわけではなく、腹を下しているから清潔な便所が必要だった。

 用を足してデパートを出ると、寒風が、鼻をもぎとらんばかりに顔を撫ではらう。目に入るのは飲食店ばかりだ。お好み焼き屋、ラーメン屋、日高屋、魚民、ネパール料理屋、カラオケパブ。自宅付近の飲食店にわざわざ行く意味はない。高架下では小汚い恰好をした、なにで身を立てているのかわからない二人の老人がワンカップと煙草を楽しんでいる。その隣でアジア系の若者が煙草を吸いながらハンズフリーで電話をしている。何事かをまくしたてているようだが、実際は母国のイントネーションにより激しい口調に聴こえているだけかもしれない。

 駅付近の汚い路地を歩いていると、ふと、大きな樽が目に入った。自分の身の丈ほどもある巨大な樽だった。その脇には黒いボードが置いてあった。白いペンで文字が書いてある。

 

  愛はきっと奪うでも奪われるでもなくて気がつけばそこにあるもの♪

 

 ミスチルの歌詞だった。

Yに会いに行くのは明日でもいいかという気持ちになった。

樽を避けて地下への階段を下りて重い扉を開けると、そこは瀟洒なバーのようなところだった。ワイン色の壁に囲まれた空間で、各テーブルに置かれた蝋燭の火と、ジャズの音色を堪能する一人の客の体が揺れていた。他の客も概ね一人で来た男だった。外の寒さと、独り身の男の避けがたい孤独から逃れるため、こうして温かい空間で身を寄せ合っているのだろうか。

僕の来店に気づいた給仕がつかつかと歩み寄ってくる。ベストを着て、蝶ネクタイをつけ、丸い眼鏡をかけたオールドスクールなウェイターだ。人懐っこそうな笑みを浮かべている。

「こんばんは。ご来店は、はじめてでいらっしゃいますか?」

「はい」

「当店会員制となってまして、こちらに簡単にご記入いただきますと、カードを発行いたします。会員の方は、御飲食がすべて半額となります。チャージ料金等も一切かからなくなりますので、ぜひご入会いただければと思うのですが」

「わかりました」

「ありがとうございます。お先にお席までご案内いたします」

名前住所電話番号メールアドレス等を記入し、「店内での客同士のトラブルに当店は一切責任を負わない」といった注意事項にチェックを入れると、つまみにしては、そこそこ量のあるナッツと、なにかよくわからない黄色いカクテルのようなものが運ばれてきた。

「こちらご入会いただきましたので、サービスでございます」

カクテルは甘くてほのかに桃のような香りがした。おいしい。

 腹は減っていなかったのでチーズを頼むと、待っている間、特にやることはなく、しかし酔いが回ってきて心地よかった。

 突然、店内の明かりが落ちた。音楽も鳴りやんだ。客席の中央部にぽっかりと空いたスペースが、ライトアップされた。いままで気づかなかったが、店の奥にスクリーンがある。

 スクリーンには、宇宙空間をメラメラと燃えた隕石が縦横無尽に飛び交うイメージが映された。それらが飛び交う轟音を表現したエフェクトがスピーカーから鳴り響く。隕石の飛翔がおさまると、石板のようなものが宇宙空間に叩きつけられ、そこに焼印が押された。石板に刻印された文字はこう読み取れた。Fight Time。

 店内の両端で二人の男が立ち上がった。中央部にゆっくりと歩きながら衣服を脱ぎ棄てていく。着やせしていたのか、両者ともに筋骨隆々の肉体があらわになり、照明を反射して艶めく。

 向かって右側の男は長髪を後ろで結び、口元に髭を蓄えている。おそらく30代半ばだが、整った顔立ちで、首だけ異様に太く見える。左側の男は、丸坊主で、お世辞にも美男子とは言い難く、生まれつきなのか潰されたのかわからない低い鼻だ。年齢不詳。両方の肩から腕にかけてトライバルのタトゥーが入っている。二人とも、これから行われることを我慢できないといった喜びの表情を浮かべている。

 非常時を告げるかのようなブザー音が店内に響いた。

 両者ともにジャブを打つでもなく睨みあっている。グローブをつけているわけでもないし、身のこなしも街の不良の域を超えるものではない。ほんの冗談のつもりなのかと思いかけたそのとき、長髪が右ストレートを打った。と思ったら彼は床に膝をついていた。カウンターでボディーに左フックが入ったようだ。丸坊主は、ダウンした長髪の髪を掴み、顔を上げさせると、殴り始めた。何度も何度も、血液や歯が木の床に散らばるまで殴り続けた。にっこりとほほ笑んだ給仕が、丸坊主の肩をトントンと叩くと、彼はにやりと笑ってから、動かなくなった長髪を床に放った。

 再びブザーがなり、ユーチューバ―がよく使っているフリー音源のような歓声がスピーカーから再生された。やや間があってからドラムロールが鳴りはじめ、スポットライトが店内を交錯した。まさか自分が照らされることもあり得るのだろうか。冷たい汗を背中に感じながら、固唾をのんでいると、幸いにも別の客が照らされた。僕はいますぐ帰ろうと思った。にやにやしながら立ち上がって服を脱いでいる次の挑戦者を横目に、給仕の方へ駆けつけると、「あの、お釣りいらないんで」と行って、念のため一万円を押しつけた。給仕は「お気をつけてお帰り下さい」とビジネスライクに告げると、ベストのポケットに万札を乱暴にねじこみ、試合の観戦に戻った。僕の方は一瞥もしなかった。

 店を出ると、全身の汗が風に吹きつけられて凍えそうになった。いつも通りの汚くて灰色の街がそこにあった。僕は小走りで路地を駆けていった。

サボり⑪

24歳の僕の話はめちゃくちゃつまらなかった。ああいうのが一番だめだと19歳の僕は思う。もう二度と登場しないでほしい。
最近は、おじさんと土手を滑ったり、空木と喧嘩したり、豚を殺したり、24歳の僕が現れたり、といろいろなことがあって大学をサボり気味になっていた。そろそろゼミの出席数が足りなくなる。ゼミの単位を落として再履修になると、「クローズドな集団に参入する」という心理的障壁の高いことをまたやらなくてはならない。それは避けたい。
久しぶりのゼミでは久生十蘭の「母子像」という短編を取り扱っていた。僕は女の子がたくさんいる空間にいることが嬉しくて、あまり人の発言が耳に入ってこなかった。
ゼミが終わるとすぐ帰る人もいるが、そういう人というのは概して社交的ではない。僕も本来はそういうタイプなのだが、少し人と喋りたくて、わざともたもたとレジュメをトートバッグにしまったり、メールが来ていないか確認したりしていた(来てなかった)。川村さんが話しかけてきた。
「今度ゼミ飲みやるんだけど、来ない?」
「ゼミ飲みかぁ」川村さんは、栗色の長い髪を緩く巻いていて、笑うと目が横に倒した三日月のように細くなるのが色っぽく、笑ってないときでも口角が上がっちゃっている口元がキュートなお嬢さんだったので、二つ返事でイエスと言ってもよかったのだが、いろいろ予定があって忙しいやつなんだと思われたくて、渋るフリをしてしまった。「どうしようかな」
「いこうよう」
この「必要とされている感」くらい心地いいものはない。あとで知ることになるが、川村さんの異様に愛想のいい態度を勘違いしてしまう男はよくいて、でも彼女は媚びているのではなく単に育ちがいいだけだから、いつも変な奴が寄ってきて困っているらしい。それに川村さんには、東大を目指して三浪しているクズの彼氏がいるらしい。一生受かるな。
「うーん、じゃあ行こうかな。いつ?」
別にバイトもしていないのでいつだっていいのだが。
「金曜の5限のあと!」
携帯で予定を確認するふりをして「大丈夫」と答えた。
「来てくれるって」と川村さんが、隣の子に伝えた。
「男子一人じゃん」とその子が答えた。前歯が大きくて背が高い。名前はわからない。
「あれ、空木は?」そういえば今日は空木がいない。
「え、最近見ないよ。仲いいんじゃないの?」と前歯の子が言う。
「いや、別に・・・・・・」
喧嘩したとはいえ、空木のことは多少気になった。しかし、男子一人というのは非常に好都合なので、ゼミ飲みが終わるまでは連絡を取らないようにしようと思った。ちなみにゼミにいるほかの男子は、居酒屋のキャッチみたいなやつも野球部っぽいやつも不参加とのことだった。猫背に眼鏡の、僕が一番推してる女の子も不参加というのはやや残念だった。
このゼミ飲みに参加することで、僕の女性経験は新たなステージへとステップアップする。