生きたまま埋めるのはかわいそうだよ

シュールな世界観がいいね~って棒読みで言って

ありきたりな話

    君は俺の話を聞く気がないし俺も君の話を聞く気がない。いやそうだろうか。君は今俺の話を聞かされている。可哀想に。じきに君は俺の話に飽きるだろう。もしくは俺が俺の話に飽きるのかもしれない。まあいい。続けよう。俺は絶対に君を楽しませたりはしない。なんで俺が君を楽しませなければいけないんだ。君はそれに見合う対価を支払ったのか。それで俺が精いっぱい楽しませようと努力すれば、その無様な姿を人に吹聴するんだろう。君は泥棒じゃないか。いや、泥棒ではない。俺が無償で飴をばらまいているだけだ。しかも毒入りの飴だ。そんな嫌がらせをして楽しもうと思っていた俺が悪いんだ。これは俺が悪かった。申し訳ない。ほんとは全部俺が悪いんだ。君が理解できないようなことをいう俺が悪い。俺は絶対的な悪なんだ。ただ他人に迷惑をかけるだけ。他人を嫌な気分にさせることが俺の仕事なのさ。そんな存在になってはいけないよ。俺は今呼びかけている。俺は今君に命令したんだ。それを君は無視する。俺の言うことが聞けないのか。聞けないならさっさとここを出て行けよ。出て行け。さあ出て行け。さあ。早くここからいなくなれ。さあ。さあ。

    おまえはさっきからいったい何をうわごとのように繰り返しているんだ。そこには誰もいない。ただ白い壁があるだけじゃないか。

    俺は怖いんだ。君が俺に飽きてしまうことが。本当は俺は君を楽しませなきゃいけないんだろう。だから俺は物語を聞かせなければならない。それはこんな話さ。

    男がいた。とても醜い男だった。物心ついたころには、人からそれを聞かされて、自分の醜さを自覚するようになった。醜い自分が人に話しかけると、嫌がられてしまう。だから人に話しかけてはいけないのだと男は悟った。男はいつも一人だった。

    話をしないから、男は孤独をますます深めていった。街で流行っている劇や、音楽の話は男にはできなかった。買い物のときに、店員と天気の話をすることはあっても、どこかぎこちない調子だった。運動をしない人間の体が丈夫にならないように、男はいつまでも会話ができないままだった。男は仕事もろくにできなかった。しかし親の遺した財産で暮らすことができた。もっとも娯楽を知らない男には金の使い方はよくわからなかった。

    ある日男が公園で鳩に餌をやっていると、自分より少し年下と思われる少女が話かけてきた。「あなたはいつもここで鳩に餌をやっていますね」男はああと答えた。「楽しいですか」男はああと答えた。

    少女は決して美しくはなかった。しかし、自らすすんで男に話しかけるような人間はこれまでに誰もいなかった。男は次の日も公園で鳩に餌をやった。また少女がやってきて話しかけた。どんな質問に対しても、男は短く賛同の意を発するのみだった。少女も、「はい」か「いいえ」で答えられないような難しい質問はしなかった。

    男の人生の中でも最も幸せな日々が始まった。少女が「あのアイスクリームを買ってくれる?」ときけば、ああと答えて買い、「丘の上に行きましょう」と誘われれば、ああと答えてついて行った。男は少女の要望に応えられることが嬉しくてたまらなかった。少女も男が応えられるような願いしか抱かなかった。

    少女はあるとき訊ねた。「私のことが好き?」男はああと答えた。少女はいつもとは違う要求をした。「それじゃだめ。あなたの言葉で答えて」男は何も言えなくなってしまった。少女は小さくため息をついてこう言った。「『君のことが好きだ』って言うのよ」男は体を震わせてその言葉を発しようとした。しかし緊張してなかなかうまく言えない。「怖がることはないわ。あなたはもう自分の言葉で思いを伝えることができるはずよ」男はそれまでの少女との日々を思い出した。少女と接することでこれまで知りもしなかったことにたくさん触れることができた。男の胸にはもう少女への思いがたくさんつまっていた。あとはそれを外に出すだけだった。

「君のことが」男と少女は目を見合わせた。「好きだ」

    少女の瞳が光でいっぱいに満たされた。少女は男の手をとって駆けだした。男はそのときはじめて声を出して笑った。最初は錆びた機械が軋むような耳障りでぎこちない笑い声だったが、しだいに、楽器のように太くて朗らかな声を出せるようになった。花々は二人に笑いかけるように咲き誇り、小鳥たちは木々の上で祝福するかのように鳴き騒いだ。何もかもが男の目に美しく光り輝いて見えた。目の前で駆ける少女の髪が風にたなびいていた。少女は男の手をとったまま原っぱに勢いよく寝転んだ。男もそれにつられて転んだ。二人は草の上で子猫のように縺れ合って右も左もわからなくなった。草の上で転げまわることに疲れて、笑い声が止むと、二人の目が合った。しばらくそのまま二人は見つめ合っていた。「こういうときにどうしたらいいのかわからないんでしょ」少女が訊ねた。ああと男が答えた。「目を閉じて」そして少女は男に口づけをした。男は目をつぶったままでは何が起きているかわからなかったから、目を開けた。目を開けると少女が焦点が合わないほど近くにいることがわかり、そのときはじめて唇と唇が触れていることを知った。男はあわてて離れた。自分のような醜い人間が、人の唇に唇を重ねてはいけないような気がしたのだった。少女は悲しげな顔をして「嫌だった?」と訊いた。男は首をぶんぶんと横に振って否定した。しかし少女の顔は晴れなかった。男は勇気を振り絞って少女を抱き寄せて、今度は自ら口づけをした。そのとき男ははじめて、他者に受け入れてもらうことの喜びを知った。

「あなたのおうちに行ってもいいかしら」少女は訊ねた。男には断る理由もなく、ああと答えた。そして、少し考えてから自分の言葉で言い直すことにした。「僕の家に来てほしい」

 男と少女は市場で食材を買って家に戻った。少女は初めて来る家に興奮が抑えられないようだった。「素敵なおうちね」ああと男は答えた。これまで自宅を良いものだと思ったことはなかったが、少女に言われると、そのように見えた。

 二人はどこにだしても恥ずかしくないような豪華な晩餐を作り、二人だけでその楽しみに浸った。文句のつけようのない食事だったのは、料理がおいしかったからだけではなく、少女とテーブルを囲んでいるせいもあった。窓の外からでも二人の影が楽しそうに動いているのがわかった。

 寝室にはベッドが一つしかなかった。風呂からあがった二人はまだ湯の温もりが残る体をベッドに持ち込んで抱き合った。男は少女を抱きしめて口づけをするだけで満足し、それ以上のことは何もしなかった。ただ腕の中に少女がいるだけで幸福だった。次第に瞼が重くなり、男は眠りに落ちた。

 翌朝目覚めると少女はいなくなっていた。家のどこを探しても少女はいなかった。男は慌てて家を飛び出した。

 男はあらゆるところを探して回った。しかし、公園にも、丘の上にも、街中にも、市場にも、少女の姿はなかった。男は少女の家を探そうと思ったが、手掛かりが何もなかった。そもそも男は少女の名前すら知らないことに、そのときはじめて気づいた。

 男にできることは何もなかった。悲嘆に打ち震えながら帰路に就いた。腹が減ったからどこか店にでも入ろうと思ったが、慌てて飛び出してきたから手持ちが全くなかった。

 家に帰り、財布を探したが、なぜかどこにも見当たらなかった。これでは食事もできない。仕方なく男はあまり手を付けないようにしている金庫を開けることにした。そこには親の遺した財産があるはずだった。金庫の中は空だった。

 どうだい。少しは楽しんでいただけたかな。無様だな。信じられないくらい無様だな。でももし無様じゃなかったら君は最後まで俺の話を聞かなかっただろう。俺は他人を楽しませることができるみたいだ。そんなことできるようにならなくてもよかったのに。言葉を知らなければ。他者を知らなければ。喜びを知らなければ。こんな風に他人の気を惹こうと躍起になる必要なんてなかった。いつまでも一人で部屋の片隅に佇んでいればよかった。君が楽しんでくれたところで俺には一銭の足しにもならない。でも俺はこれをやり続けてしまうんだ。寂しいから。他人から飽きられてしまうのが怖いから。話し続けなければならない。声がかれても。話すことが思いつかなくなっても。だってもし話すのをやめてしまったら俺は生きていてもそうでなくてもまるっきり同じじゃないか。そんなことがあってたまるか。

 おい、どこ行くんだよ。おい。聞いてるのか。俺の話は終わっちゃいないぞ。おい。待ってくれよ。俺を見放さないでくれよ。頼むよ。助けてくれよ。君だけが頼りなんだよ。おい。おい。頼むから。今度はもっと面白い話をするから。絶対に飽きさせたりしない。絶対に最後まで聞かなきゃ気が済まないような話をする。だからお願いだ。俺を置いて行かないでくれ。

日本一高い塔が、東京タワーから東京スカイツリーへとなり代わったのが、いつのことだったかを正確に把握するほど、高い塔というものに興味があったわけではないが、東京スカイツリーからちんぽへとなり代わった年を正確に把握しているのは、履歴書に何度も大学を卒業する年として四桁の数字を記入したからだった。東京の空へと堂々と隆起するちんぽを見て人々が羞恥の念を抱くはずもなく、ニュースキャスターが真剣な面持ちで何度も男性器状の、という修飾を繰り返すことを単に笑い飛ばすことは困難だった。男たちは小用を足すために取り出したものにいつにない違和を覚え、ベッドの上では、性的興奮により一度は硬直するものの、これから行われることがひどく禍々しい行為であるような気に囚われ、再び元の状態へと収縮する事態がしばしば生じた。硬直を維持できたとしても、受け入れる側に拒絶反応が起きることもあった。天を衝くちんぽは地上に数多の勃起障害とセックスレスをもたらした。人々がその光景に慣れることはないかもしれないが、やがて巨大なちんぽも過去の話題となるだろう。自衛隊によるヘリコプターでのちんぽの表皮採集が行われているとき、僕は老婦人の持つリードに繋がれたシェパードに右手を齧られていた。

「いてえよ!」

老婦人はまるで自分が不審人物に恫喝されているかのように顔をこわばらせていた。しかし加害者は僕ではなくあなただ。いや、正確に言えばシェパードだが、シェパードに何かを訴えたところで事態が解消されるだろうか。

「どうにかしてくださいよ!」

老婦人は小さく悲鳴をあげてリードを手放して走り去っていった。老婦人の走る姿は貴重だ、しかし僕はシェパードに右手を齧られているのだ。シェパードに右手を齧られている人間が老婦人の走る姿の貴重性に思いを巡らせるなどということがありうるのだろうか。ありうるのだ。東京にスカイツリーよりも大きなちんぽが現れる以上、ありえないことなどない。

ロボット

久々に会ったO君は昔の面影をまるで残していなかった。太りすぎていた。ただでさえ細かった目が頬の肉でさらに細く見えた。

「O君は最近何してるの?」

「筋トレ始めたよ」

そんなことが聞きたかったわけじゃなかったが、「最近何してるの?」と訊いて面白い回答が返ってくることはまずないのでこっちが悪かった。「普段家で何してるんですか?」につぐ、よくない質問だ。

「今からうち来なよ。面白いものがあるんだよ」

その言葉につられて僕はO君について行った。

O君の家はクリーニング屋さん、お風呂屋さん、駄菓子屋といった「経営大丈夫?」と訊きたくなるような非今日的店舗が立ち並ぶ商店街にある、小さめの神社と薬局のあいだの裏道をまっすぐ行って、その行き止まりにあった。今の地理的な説明は別に大事ではないので、要は暗めの裏道にO君の家があるとわかってもらえれば大丈夫だ。

O君の家は表面にツタのようなものがはりついているところもあるが、かといってそのツタがびっしり覆っているわけではなかった。不気味とは思わず、単に年季を感じた。おばあちゃんかおじいちゃんが一緒に住んでいそうだった。

僕が玄関で靴を揃えると「ちゃんとしてるなあ」とO君が言った。

「誰もいないの?」

「いない。親仕事」

かなり急な階段を三階まで登るとO君の部屋があった。

「これよ」

部屋の中に小学生くらいの大きさのロボットがいた。人間と違って足がなく、タイヤで動くようだ。モーター音を立てながら前後左右にかなり素早く動く。

「ぶっ殺すぞ!」

突然O君が怒鳴った。僕の体が縮み上がった。

「やだー。殺さないでー」

やけにのっぺりとした調子でロボットが反応した。

「親父が当てたんだよ」

「へえ」

「なあにーもう一回言ってー」

「黙れ」

O君がそう言うとロボットが少しモーター音を立てたのちに、目から光を消し、沈黙した。

「これあげるよ」

「え」

「いらないから、あげる」

かなり強めに断り続けたのだが、だんだんとO君がイライラしはじめて、肉に埋もれかけた目の奥が笑ってないようにも感じたので、持ち帰ることにした。

持ち帰るというのは言葉のあやで、「持つ」ことはできない。僕はO君の指示に従い、ロボットの瞳を見つめたり、ロボットの目の前でゆっくり横に一回転したり、何度か声を出したりした。ロボットが僕を認識したので、路上に出て並んで移動してみた。僕は足で、ロボットはタイヤで。ロボットが僕についてくることを確認するとそのまま流れで帰宅することになった。

「なんかあったらカスタマーサービスに電話すればすぐ来てくれるよ」

O君は僕らに手を振ってくれた。目は細いからわからないが、口角の感じでは笑っていた。

僕は家には持ち帰れないと判断した。

線路沿いのなるべく人通りの少ない道を僕らは進んだ。それでも知らないおばあちゃんに絡まれたりしたが、僕は愛想よく笑いながらもいちいち歩みをとめなかった。

ロボットは脈絡もなくうるさい音を発したり、勝手にうなだれるような恰好をして地面によくわからない映像を目から投射したりして、少しうっとうしかった。そういう場合も構わず歩き続けるのだが、あまりにも僕が先に行き過ぎるとついてこなくなるので、引き返して動作が収まるまで待つ必要があった。

駅でいうと二駅ほど歩き、体にかなりの疲労を感じつつ、土手にたどり着いた。あまり考えることをせずにここまで来てしまったので、階段で土手を上がることができないのを忘れていた。しかし、少し歩くと車椅子の方への配慮なのか、なだらかな坂があったので、それを上っていった。なだらかな分、かなりの距離を歩かなければならないので、階段で行くよりはるかに時間がかかった。

降りるときは、乱暴だが、ロボットを横に倒し、草の斜面の上を転がした。ものすごい勢いがつき、途中、 跳ね上がったりもしたが、草なので、それほど衝撃は大きくないようだった。

ロボットを起こし、夕日と、光を反射する川面を見つめた。ロボットはおそらく、夕日も、川面も理解しない。

僕は川に向かって歩き出した。水辺に近づいてきても歩く速度を緩めたりはしなかった。そのままの勢いで水の中に入っていった。靴の中まで水浸しになったが、どうせボロボロだったので、帰ったら捨てようと思った。

背後でバシャンという水の音がした。ロボットが川に倒れこんでいた。それきりロボットは動かなくなった。僕は川から上がった。

そのままの足でコンビニに行ってタオルを買った。靴と靴下は一度脱いでしまうともう履く気になれず、コンビニの前に置き去りにした。

帰り道でもさっきとは別のおばあちゃんに、裸足を見つめられながら「陸上の選手なの?」と訊ねられた。

「そうなんです」と僕は答えたが、僕は陸上の選手ではない。

自分はなんとしても彼女にこの手紙を届けなければならない

 自分はなんとしても彼女にこの手紙を届けなければならない。自分はなんとしても彼女にこの手紙を届けなければならない。雷鳴の轟く豪雨の中も、醜悪な毒虫や伝染病を運ぶ羽虫にまみれた藪の中も。突き進んでいかなければならない。その際に後ろを振り向いてはならない。今朝、首を寝違えてしまったことを忘れてはならない。自分を駆り立てるものが魂だけだと勘違いしてはならない。自分は自分の魂を運ぶこの体を大切にしなければならない。自分はなんとしても彼女にこの手紙を届けなければならない。

 実際、困難な道のりを通ることはなかった。曇り空の下、過ごしやすい気候の中を自分はのろのろと歩いていた。しかし自分の進行に困難をもたらしたのは、自分の注意不足であった。自分の手に、自分の手紙がない。自分はどこかに自分の手紙を落としてしまった。自分はなんとしても彼女にこの手紙を届けなければならない。自分はなんとしても彼女に届ける手紙を失くしてはならない。しかし自分の手に自分の手紙がない。自分はなんとしてもこの手紙をとり戻さなければならない。

 自分はもときた道を戻り始めた。自分は早急に自分の手紙を見つけなくてはならない。しかし、自分の手紙が早急に見つかることはなく、時間ばかりが過ぎていく一方だった。自分はもう一度手紙を書けばいいのではないだろうか。しかし、今となっては、自分の書いた手紙になんと書かれていたのか、思い出すこともままならないのだった。自分はなんとしてもあの手紙をとり戻さなければならない。他のどんな手紙も、あの手紙の代えにはならない。自分はなんとしてもあの手紙をとり戻さなければならない。

 自分は、いささか消耗したようだ。いつのまにやら、脚がうまく動かなくなってきている。自分はなんとしてもあの手紙をとり戻さなければならない。その思いは自分のなかで確固たるものとして在り続けている。その思いは常に自分を駆り立て続けている。しかし、自分を駆り立てるものが魂だけだと勘違いしてはならない。自分は自分の魂を運ぶこの体を大切にしなければならない。自分はなんとしても宿でこの体を休めなければならない。

 幸い、宿はすぐに見つかった。自分はただちに眠りについた。どれくらいの時間が経ったかわからないが、自分の安眠は妨害された。一人の女が、下着姿で自分の上にまたがっていた。自分はなんとしてもこの誘惑に屈してはならない。自分はなんとしてもこの誘惑に屈してはならない。自分はなんとしてもこの誘惑に屈してはならない。

 自分は誘惑に屈した。自分は身に纏っているものをすべて失った。その上で、路上に放り出された。自分は自分ほどみじめな人間を自分以外に知らなかった。野良犬さえ、自分より恵まれているように思えた。しかし、自分はなんとしてもあの手紙をとり戻さなければならない。自分はなんとしてもあの手紙をとり戻さなければならない。手足の指、鼻の先、性器などのさまざまな先端部が、寒気の中で腐り落ちようとも、自分はなんとしてもあの手紙をとり戻さなければならない。幸い、空は曇ってはいるが、身に纏うものさえあれば過ごしやすい気候であったため、先端部が腐り落ちる恐れはなかった。

 自分は手紙を見つけた。手紙は川の表面を流れていた。自分は川の中へ足を踏み入れた。そうしている間にも手紙は下流へと流れていった。自分は泳ぐのが苦手だった。しかし泳ぐのが苦手な人間が、泳ぐのが苦手なままにあの手紙を手にすることは難しいように思われた。自分は過去のどんな時よりもうまく泳いでみせなければならない。自分は過去のどんな時よりもうまく泳いでみせなければならない。

 自分はたくさんの川の水を飲みこんだ。川の水を飲みこむことに気をとられているようでは永遠に手紙へは追いつかない。自分はときには自分の魂を運ぶこの体をないがしろにしなければならない。自分を駆り立てるものが魂だけであるかのように振舞わなければならない。自分はなんとしてもあの手紙をとり戻さなければならない。

 自分は手紙をとり戻した。手紙は水に浸かりぼろぼろだったが、それは確かに自分の手紙であった。自分は苦労して陸に上がった。濡れた裸の体に風が吹きつけ、熱が奪われていった。自分の頭はぼんやりともやがかかったように朦朧としてきた。

 自分は彼女にこの手紙を届けなくてもいいのかもしれない。こんなことは全部最初からなかったことにすればいいのかもしれない。水に浸かった手紙は、インクが滲み出て解読できないかもしれない。そもそもここからまた彼女のもとへ向かうことが可能なのかすらわからない。そもそもここはどこなのか。彼女がこの手紙を受け取ったところで、彼女はどう思うのだろうか。この手紙にはいったいなにが書かれていたのか。自分はなぜ彼女にこの手紙を届けなければならないのか。

 それでも、自分はなんとしても彼女にこの手紙を届けなければならない。それが何を意味するのかわからないとしても、自分はなんとしても彼女にこの手紙を届けなければならない。自分はほんとうは彼女にこの手紙を届けなくてもいいのだ。しかし、自分はなんとしても彼女にこの手紙を届けなければならないと、自分が、思っている。なんとしても届けなくてはならないと思っている。自分はなんとしても彼女にこの手紙を届けなければならない。自分でそう決めた。

 自分は彼女にこの手紙を届ける前に力尽きた。自分は彼女にこの手紙を届ける前に死んだ。しかし、自分は自分が死んだことを知らない。自分はもう死んでしまったので、自分が死んでしまったかどうかわからない。自分はもう死んでしまったから、自分が彼女に手紙を届けることができたかどうかを、判断するすべはない。もしかしたら、自分は彼女にこの手紙を届けることができたのかもしれない。しかし自分はおそらく彼女に手紙を届ける前に力尽きたのだろう。しかし自分はそのことを知らない。自分は最後まで自分はなんとしても彼女にこの手紙を届けなければならないと思っていたから、自分は最後までなんとしても彼女にこの手紙を届けなければならないと思いながら力尽きた。誰かが自分の死体に毛布をかけた。しかし自分はもう死んでしまったから、誰かが自分の死体に毛布をかけたことを知らなかったが、知らなかったとしても、自分は最後まで自分はなんとしても彼女にこの手紙を届けなければならないと思って力尽きたから、そのことは自分にとってよいことだった。

トゲトゲの森

トゲトゲの森は巨大なソフトクリームのコーンを裏返したもので出来ているのだが、先日、暗黒平野調査団のヘリコプター内で痴話喧嘩のもつれの末乗組員4名が飛び降り、コーンの先に身を貫かれて死んだ。血液の付着したコーンにハイエナがたかり、サクサクという音を森中に響かせたという。

そんなトゲトゲの森に僕らはやってきた。僕らとは男4人で構成された大学生の集団である。皆、ラジオ同好会に所属しているのだが、誰もラジオに興味がない。入学当初ものすごく美人の先輩に釣られて入部したのだが、4人ともまともに会話することもなく先輩は卒業してしまった。それ以降は時間を持て余しラジオとは無関係な活動に身をやつしている。

柳川はガリガリに痩せているのだが、とにかく常に何か食べている。太ろう太ろうと努力し、氷砂糖をバリボリ食したりもしているのだが、一向に太る様子がない。「太ろうとする」のが彼の趣味で、部室にいるときもその趣味を続行していた。ふと思ったが、この柳川という男は全く面白くない。早く部をやめて欲しい。正直、顔も見たくないと思う。面白くないのだ。

駒田はナイフを飲み込むマジックが出来る。どういう理屈かはわからないが、よくナイフを飲んでいる。「感情を失った」というワードにはまっているらしく「感情を失った○○かよ」という喩えツッコミを頻用するのだが特にピンときたことはない。

石野は少し絵が上手い。一度僕の絵を描いてもらった。また今度描いてもらいたい。

そんな柳川、駒田、石野と僕で、トゲトゲの森に訪れたのだが、トゲトゲの森の看板を通り過ぎて数分で左腕が千切れている男に出会った。男はとれた左腕を右手でもって喰っていた。左腕があった場所からは血がどばどば流れているのだが少しづつ再生しているようだ。時計の短針がいつ動いているのかわからないように、いつ再生しているのかを確認することが困難なのだが、気づくと腕が伸びている。極めて怪しい男ではあったが、まさか人に会えるとは思っていなかったので話しかけることにした。

「すいませ〜ん、攻殻機動隊の作画資料集はどこにありますか?」

左腕再生男は興味深そうにこちらを見つめてから首を傾げた。それからすぐにこちらに関心をなくし、通り過ぎて行ってしまった。

「なぁ、こんなところに攻殻機動隊の作画資料集があるわけないだろ?もう帰ろうぜ」と柳川が言った。

攻殻機動隊の作画資料集を探してるのは鎮須磨だけじゃん。俺は純粋に死にに来たんだよ」と駒田が答える。

「いや、お前の事情は知らねぇよ」

「そういうことじゃなくて、俺が言いたいのは柳川以外はみんな何かしらの目的をもってここに来てるんだ。帰るなら一人で帰れよ」

「石野もそうなのか?」

「え、俺は、目的とか特にないかもな。コーンを齧ってみたいっていう気持ちはあったけど」

柳川は立ち止まった。そしてくるりと踵を返し元来た道を引き返して行った。

三人になった。

コーンが見えてきた。非常に大きく香ばしい匂いがする。多くの小さな虫が付着しているが、それを払いのけ、僕らは一口ずつ齧った。

「市販のとあまり変わらないな」

「あ、ちょっと蟻喰っちゃった」

「でもこれ美味い」

僕らは三人で笑った。駒田はそろそろ死に場所を決めたいらしい。

「死ぬ前にいい思い出が出来たよ。みんなありがとう」

駒田はコーンとコーンの合間を縫ってわずかに生えていた木の一つにロープをくくりつけた。

「駒田はなんで死ぬの?」石野が言った。

「特に生きる理由がなくて。両親が死んで、齧る脛もないし、働く気はないし」

駒田は歌を歌い始めた。ラップ調でほとんど聞き取れなかったが聞き取れた部分では

「yo俺がこの場所から始めるスーサイド。彼女と行った品川シーサイド。」みたいなことを言っていた。白目の量が多くなり、涎を大量に垂らしながら顔を紫色にして駒田は死んだ。

石野と二人で歩いているとコーンのかげに猫くらいの大きさのインド象を見つけた。象は体を丸め縦横無尽にゴロゴロ転がって砂埃を巻き上げていた。

「これ、めちゃくちゃかわいいな!」と僕は言った。

「喰えるかな?」石野が言った。

「いや、こういうかわいい生き物は、喰うより、生き続けた方が世界に対して利益があると思わない?」

「俺は腹が減ったよう」

結局石野を何度も殴りつけることによって諦めさせたが、石野は前歯2本とその左隣の歯を失った。僕は持っていたグミをその歯があった空間にあてがったら見事にはまったので、写真を撮った。二人でそれを見ると笑えた。

自分も何らかの肉体的な代償を払わなければならないと石野に提案すると、石野は「ペニスを切り落とせ」と言った。僕は道具が見つからないから少し待ってくれと言ったが、「俺が噛み切ってあげるよ」とのことだったので、提案に甘んじた。

筋繊維はなかなか噛み切れなかったため時間がかかった上に切断面がズタボロだったが、無事、噛みちぎることが出来た。石野はそれを喰った。

僕はもう歩くことができなかった。

「もう攻殻機動隊の作画資料集にも特に興味が湧かないな」僕は言った。石野は「俺はこの森にも最初からそれほど興味はなかったんだよな」と言って笑った。

尻を血の海に浸しながら朦朧とする頭で過去を振り返ってみた。すると、小学校の廊下に立たされているときや、万引きをして両親と共に中学校の職員室に呼び出されているときや、向こうのマッチポイントで自分が放ったサーブが二回ともネットに引っかかり敗退し、ペアの男に唾を吐かれたときなどが浮かんだ。その情景の上を大量のエビが飛び交い始めた。次第にその量と速度がまし、最後は何本もの桃色の線が斜めに交差する平面だけが残った。

石野はあのカツラをかぶったマルマインのような顔の美大生の彼女と結婚して二人の子を為すのだろう。しかしそのことは僕に何の関係もない。


僕の就職活動日記

現在私は就職活動中で日々さまざまな企業の説明会に参加している。今日行った企業はとんでもなかった。

まず、司会を務めている人事部採用担当者の話からひどかった。

「今日はどいつもこいつも同じようなバカヅラ下げてノコノコやってきたみたいだけど、おまえらの中から採用するのは二人だけってもう決まってるんだよね。『とりあえず』みたいな考えで説明を聞きに来たヤツは家帰ってホームページでもみてくれ。」

いきなりダルそうな調子で語り始めた二十代後半くらいのメガネをかけた男の発言に、空気が凍り付いた。

「今日はこれ、選考です。おまえら面接にそなえてお決まりのきれいごと練り上げてるのかもしれないけど、そういうのはウチは興味ないわけ」

男は手元のタブレットを触るが、とくに何かを調べているわけではなく、ただ単に触りたかっただけのようだ。

タブレットから顔を上げて一番前に座っている女子を見つめる。そしてこう言った。

「きみさ、うち第一志望?」

女子はやや考えてから「はい」とこたえる。

「いいね。」

男は深く何度かうなずく。

「君は今の時点で最も内定に近い人間だ」

そういって笑みをうかべる。女子はありがとうございます、と言う。

「ウチのためならなんでもする覚悟があるんだ?」

「・・・はい」

「じゃあまずジャケットを脱ごうか」

女子はやや戸惑いながらも素直に従う。

「次は靴を脱ごう」

「・・・・・・はい」

女子が靴を脱ぎ終わると間髪入れずに「次はシャツね」と言う。

さすがに女子は戸惑いをあらわにする。

「すみません、それは、できません」

「なんで?」

男はつかつかと女子のもとに歩み寄る。女子の胸倉をつかむ。

「おかしいだろぉぉぉぉ!!!!ああああああん!!???」

男は女子のシャツの前方をものすごい力で左右に引っ張り、ボタンが弾け飛ぶ。

女子は我が身を抱きかかえるようにしてうずくまる。すすり泣いている。

次の瞬間、僕は立ち上がり、内ポケットからコルトパイソンを取り出し、男の頭蓋に照準を合わせていた。

照準越しに男と僕の目が合う。

しかし、気づくとなぜか僕は椅子に座っており、拳銃も元通り心臓付近に収まっていた。

「ウチのためならなんでもする覚悟があるんだ?」

「・・・はい」

さっきも見たやりとりだ。なにかがおかしい。

「じゃあまずジャケットを脱ごうか」

男が言葉を発するのと同時に僕は悟る。

こいつ、時間軸に干渉してやがる。

「次は靴を脱ごう」

「・・・・・・はい」

男は時間軸に介入したが、「介入した」という自己認識は失われているらしい。

「次はシャツね」

もしこのあと、僕がまたコルトパイソンでヤツの頭をねらっても、結局同じことの繰り返しになる。

「すみません、それは、できません」

「なんで?」

あれを使うしかない。

「おかし

次の瞬間僕は極彩色のシャボン玉めいたマーブル色の空間にいた。

見ているだけで目がチカチカしそうな色彩に四方八方を囲まれている。かろうじて天地の感覚だけはある。

そして少し離れた前方に男が対峙している。目をぎらつかせて僕を睨んでいる。

「てめぇ、なにしやがった」

「お前が時間に干渉するなら、こっちは空間に干渉しようと思ってね」

「空間だと?」

「そうさ。僕とおまえだけの空間を現実の空間から『抉り取った』。ここは地球上のどこでもないところなんだ。概念的には『地球の裏側』と呼んでもいいかもしれないね。もちろん地表の下という意味ではないよ。」

「ごちゃごちゃうるせえ!さっさと元に戻しやがれ!」

僕は拳銃を取り出す。

すると男は時間に介入しようとする。

しかし僕が空間に介入する方が早い。

このマーブル色の空間から、さらに、もう一つの空間を「抉り取る」。

結果、僕らは「空間内空間」に現れる。

マーブルが二重になってさらにどぎつい色だ。

男のモーションは依然として時間介入のまま。

僕はそこに弾丸を放ち、空間内空間から抜け出す。

「そこで永遠に死んでな」

男の断末魔が聞こえる。

彼は自らが行った時間介入によって、あの空間内空間で弾丸を食らっては時間を巻き戻し、また食らっては巻き戻すことをいつまでも続けるのだろう。

壊れた玩具のように。

僕は元の現実空間に帰還した。

そこではあの男ではなく、女性社員が司会を行っていた。

また別の世界線なのだろう。

しかしあの女子は前と変わらず一番前の席で背筋をピンと伸ばし、一つ結びの髪の裏側にきれいなうなじをのぞかせていた。

帰り際にその女子に話しかけて、お茶でもしないかと誘ってみたが、虫を見るような目で見られ、丁寧にお断りされてしまった。

だれがお前を救ったと思ってるんだ。

 

 

女のやさしさ

「ごめん私おしっこ!」

 いってらっしゃい、と笑顔で見送りつつも、実際にNが用を足しているさまを思い浮かべてしまい、胸がざわついた。

 自分も男子トイレに入ることにした。用を済ませ、手を洗っていると、女子トイレから甲高い笑い声が響いてきた。

 男子トイレから出てもしばらくの間、Nは出てこず、しかし楽しそうな声だけは外まで響いているのだった。

 手持ちぶさたになり、窓から外の風景を見たりして、決して自分はトイレから女が出てくるのを待っているわけではないというように振る舞っていたが、なかなか出てこない。さすがに遅すぎるだろうと思い始めたぐらいにNは他の女とともに出てきた。

 「ごめん、お待たせ」

 「あ、Oくんだ、どうしたの」

 Nとその友達と思しき女が同時に声をかけてきた。

 「Nを待ってたんだ。なんだか楽しそうだね」

 僕がそういうと、ふたりはくすくすと笑った。あまりいい気分はしない。

 「べつになんでもないよ」

 「そう?もっと話してくれば?トイレで」

 「ううん、行こう。じゃあね」

 Nは友達に別れを告げた。あんまり僕をほったらかしにしたものだから、つい皮肉っぽい言い方をしてしまった。Nには伝わってしまっただろうか。Nはだいたいいつも愛想がいいか、ぼーっとしているかのどちらかだから、わからない。ぼーっとしていると怒ってみえる人も多いがNに関してはそう思わないのは、顔がそういうつくりなんだろう。そしてNは怒ったりはしない。嫌なことは全部自分のなかに溜め込むタイプの人間だ。

 以前、こんなことがあった。Nのいたクラスで、退職する先生にプレゼントを渡そうということになった。そのとき、どういう意図かはわからないが、かたくなにプレゼント代を払うことを拒んだグループがあった。しかしNはそのことを大っぴらにしたりはせず、全て自分で負担した。そのことをクラスの人間は知らなかったが、僕は、Nの母親、僕の母親、を経由して知った。

 Nはみんなから頼りにされ、まとめ役を務めることが多かったが、べつにそういった役が向いてるわけじゃなかった。Nになにかを任せようとする人間のわかってなさに、僕はひどくいらついたものだった。ただ人当りがいいからという理由で、損な役回りを受け持っているときのNが、ひどく悲しい笑い方をするのを、僕以外のだれが知っているだろう?

 トイレの前でNの女友達とわかれてから学校の外に出るまで、Nはその女友達について詳細に語ってくれた。しかし、僕はその女友達にそれほど興味がなかったので、「うん」「なるほど」「たしかに」といった肯定的な相槌を適当に打ちながら、N自身について考えていた。Nはやさしい。そしてNのやさしさはどんな人間にも向けられるものだ。「良くも悪くも」と僕は心のなかで付け足した。

 電車でニ十分ほど移動し、着いた駅から十分くらい歩いて、映画館に着いた。Nが小学校のころ好きだったアイドルが主演の映画だった。Nが小学校時代に雑誌の切り抜きを手帳に挟んでいたころのそのアイドルは、虫も殺せないようなあどけない顔だったのに、いまではハリウッド映画にチョイ役で出たり女性スキャンダルを起こしたりするまでの大物になっていた。Nも僕も映画が始まる前にまたトイレに行ったが、特になにごともなく、Nは僕より少し遅れて出てきた。

 映画は最初の三十分くらいは真面目に見ていたものの、途中からただ目の前を映像が流れるだけになってしまった。その間僕は今日のこれからの段取りについてシュミレートしていた。ときどき物凄い不安が襲ったが、「最近はなかなか遊ぶ機会がないから、もう今日決めるしかないんだ」と自分に言い聞かせた。「僕以上にNを知る奴がどこにいるんだ」とも思った。「これ以上、Nのことなんか何もわかってない奴らの好きにさせてたまるものか」と思うと、体が震えた。

 ときどき、ちらちらと横を見ると、Nは前を見つめていた。さすがに横ばかり見過ぎたのか、Nがこちらに気づいた。Nは僕を見て笑った。映画のショットが切り替わるごとに、Nの頬にあたるスクリーンからの光のかたちが変わった。

 映画を観終わり、いよいよ行動の時がきた。僕はネットでおいしいと評判の鍋料理のお店に行かないかとNを誘った。Nは快く応じてくれた。

 歩く道すがら、Nは映画の感想を語った。僕はろくに観ていなかったので、同じジャンルの先行作や、出ていた俳優の他の出演作などに言及することで、その場をしのいだ。

 さっきみた映画で優しい父親の役だった俳優が、他の出演作で、いかに暴力的で無慈悲な役を演じているかを僕が語っていると、背の高い男がこちらに近づいてきた。

 男は仕立てのいい服を着て、おそらく、はたち過ぎと思われる姿だった。紙でも切れそうなきれいな鼻筋に、切れ長な目をした、全体的にシャープで冷酷そうな印象を受ける男だった。とても僕らのような学生に用があるふうには見えなかったので、何か悪いことをしてしまったのだろうかと思った。脇の下から嫌な汗が出てくるのがわかった。

 「なにしてんの」

 僕は身構えて何も言葉が出なかったが、Nは答えた。

 「映画観てたの」

 「デート?」

 「まあ、そうかな」

 そう言ってNは笑ったが、男は真顔だった。

 「あのー」

 男は頭を掻きながら、言葉を選んでいるようだった。

 「冗談でもそういうのやめてくれよな」

 男は発言の鋭さを照れたような笑いでごまかすように言った。

 「あ、ごめん」

 Nはそういってから、気まずそうに少し下を向いて黙った。

 それから男は僕に向き直って言った。

 「これからどこか行く予定だった?」

 男の口調は思いがけずやわらかなものだった。

 「はい」

 「どこに」

 「ごはん食べに行こうと」

 男は少し考えてから言った。

 「俺も行っていい?」

 「えー!やめてよ!」

 といきなりNが言った。Nの耳の端が赤くなっていた。

 男とNはしばらく交渉していた。僕はそれを見ていた。

 二人がしゃべっているのを、一人が見ているのだった。実際は多少言葉を発していたのだろうが、もう何を言っていたか思い出せない。

 結局、Nが折れて、三人で鍋を食べに行くことになった。

 「なんかごめんね、変なことになっちゃって」と言ってNは、はにかんだように笑った。その笑い方は、Nが人に頼られて、嫌なことを全部その身に引き受けているときのあの「悲しい笑い方」にそっくりだった。そっくりでも、今は、全く意味が違っていた。それは、「表面上の申し訳なさを内心の嬉しさが上回っているのがはっきりとわかる笑い方」だった。

 男とNのやりとりを、降りかかる雨のように背中に浴びながら、Nのやさしさが、不特定多数の人間ではなく、特定の個人に向けられている瞬間を全身であじわった。