生きたまま埋めるのはかわいそうだよ

シュールな世界観がいいね~って棒読みで言って

女のやさしさ

「ごめん私おしっこ!」

 いってらっしゃい、と笑顔で見送りつつも、実際にNが用を足しているさまを思い浮かべてしまい、胸がざわついた。

 自分も男子トイレに入ることにした。用を済ませ、手を洗っていると、女子トイレから甲高い笑い声が響いてきた。

 男子トイレから出てもしばらくの間、Nは出てこず、しかし楽しそうな声だけは外まで響いているのだった。

 手持ちぶさたになり、窓から外の風景を見たりして、決して自分はトイレから女が出てくるのを待っているわけではないというように振る舞っていたが、なかなか出てこない。さすがに遅すぎるだろうと思い始めたぐらいにNは他の女とともに出てきた。

 「ごめん、お待たせ」

 「あ、Oくんだ、どうしたの」

 Nとその友達と思しき女が同時に声をかけてきた。

 「Nを待ってたんだ。なんだか楽しそうだね」

 僕がそういうと、ふたりはくすくすと笑った。あまりいい気分はしない。

 「べつになんでもないよ」

 「そう?もっと話してくれば?トイレで」

 「ううん、行こう。じゃあね」

 Nは友達に別れを告げた。あんまり僕をほったらかしにしたものだから、つい皮肉っぽい言い方をしてしまった。Nには伝わってしまっただろうか。Nはだいたいいつも愛想がいいか、ぼーっとしているかのどちらかだから、わからない。ぼーっとしていると怒ってみえる人も多いがNに関してはそう思わないのは、顔がそういうつくりなんだろう。そしてNは怒ったりはしない。嫌なことは全部自分のなかに溜め込むタイプの人間だ。

 以前、こんなことがあった。Nのいたクラスで、退職する先生にプレゼントを渡そうということになった。そのとき、どういう意図かはわからないが、かたくなにプレゼント代を払うことを拒んだグループがあった。しかしNはそのことを大っぴらにしたりはせず、全て自分で負担した。そのことをクラスの人間は知らなかったが、僕は、Nの母親、僕の母親、を経由して知った。

 Nはみんなから頼りにされ、まとめ役を務めることが多かったが、べつにそういった役が向いてるわけじゃなかった。Nになにかを任せようとする人間のわかってなさに、僕はひどくいらついたものだった。ただ人当りがいいからという理由で、損な役回りを受け持っているときのNが、ひどく悲しい笑い方をするのを、僕以外のだれが知っているだろう?

 トイレの前でNの女友達とわかれてから学校の外に出るまで、Nはその女友達について詳細に語ってくれた。しかし、僕はその女友達にそれほど興味がなかったので、「うん」「なるほど」「たしかに」といった肯定的な相槌を適当に打ちながら、N自身について考えていた。Nはやさしい。そしてNのやさしさはどんな人間にも向けられるものだ。「良くも悪くも」と僕は心のなかで付け足した。

 電車でニ十分ほど移動し、着いた駅から十分くらい歩いて、映画館に着いた。Nが小学校のころ好きだったアイドルが主演の映画だった。Nが小学校時代に雑誌の切り抜きを手帳に挟んでいたころのそのアイドルは、虫も殺せないようなあどけない顔だったのに、いまではハリウッド映画にチョイ役で出たり女性スキャンダルを起こしたりするまでの大物になっていた。Nも僕も映画が始まる前にまたトイレに行ったが、特になにごともなく、Nは僕より少し遅れて出てきた。

 映画は最初の三十分くらいは真面目に見ていたものの、途中からただ目の前を映像が流れるだけになってしまった。その間僕は今日のこれからの段取りについてシュミレートしていた。ときどき物凄い不安が襲ったが、「最近はなかなか遊ぶ機会がないから、もう今日決めるしかないんだ」と自分に言い聞かせた。「僕以上にNを知る奴がどこにいるんだ」とも思った。「これ以上、Nのことなんか何もわかってない奴らの好きにさせてたまるものか」と思うと、体が震えた。

 ときどき、ちらちらと横を見ると、Nは前を見つめていた。さすがに横ばかり見過ぎたのか、Nがこちらに気づいた。Nは僕を見て笑った。映画のショットが切り替わるごとに、Nの頬にあたるスクリーンからの光のかたちが変わった。

 映画を観終わり、いよいよ行動の時がきた。僕はネットでおいしいと評判の鍋料理のお店に行かないかとNを誘った。Nは快く応じてくれた。

 歩く道すがら、Nは映画の感想を語った。僕はろくに観ていなかったので、同じジャンルの先行作や、出ていた俳優の他の出演作などに言及することで、その場をしのいだ。

 さっきみた映画で優しい父親の役だった俳優が、他の出演作で、いかに暴力的で無慈悲な役を演じているかを僕が語っていると、背の高い男がこちらに近づいてきた。

 男は仕立てのいい服を着て、おそらく、はたち過ぎと思われる姿だった。紙でも切れそうなきれいな鼻筋に、切れ長な目をした、全体的にシャープで冷酷そうな印象を受ける男だった。とても僕らのような学生に用があるふうには見えなかったので、何か悪いことをしてしまったのだろうかと思った。脇の下から嫌な汗が出てくるのがわかった。

 「なにしてんの」

 僕は身構えて何も言葉が出なかったが、Nは答えた。

 「映画観てたの」

 「デート?」

 「まあ、そうかな」

 そう言ってNは笑ったが、男は真顔だった。

 「あのー」

 男は頭を掻きながら、言葉を選んでいるようだった。

 「冗談でもそういうのやめてくれよな」

 男は発言の鋭さを照れたような笑いでごまかすように言った。

 「あ、ごめん」

 Nはそういってから、気まずそうに少し下を向いて黙った。

 それから男は僕に向き直って言った。

 「これからどこか行く予定だった?」

 男の口調は思いがけずやわらかなものだった。

 「はい」

 「どこに」

 「ごはん食べに行こうと」

 男は少し考えてから言った。

 「俺も行っていい?」

 「えー!やめてよ!」

 といきなりNが言った。Nの耳の端が赤くなっていた。

 男とNはしばらく交渉していた。僕はそれを見ていた。

 二人がしゃべっているのを、一人が見ているのだった。実際は多少言葉を発していたのだろうが、もう何を言っていたか思い出せない。

 結局、Nが折れて、三人で鍋を食べに行くことになった。

 「なんかごめんね、変なことになっちゃって」と言ってNは、はにかんだように笑った。その笑い方は、Nが人に頼られて、嫌なことを全部その身に引き受けているときのあの「悲しい笑い方」にそっくりだった。そっくりでも、今は、全く意味が違っていた。それは、「表面上の申し訳なさを内心の嬉しさが上回っているのがはっきりとわかる笑い方」だった。

 男とNのやりとりを、降りかかる雨のように背中に浴びながら、Nのやさしさが、不特定多数の人間ではなく、特定の個人に向けられている瞬間を全身であじわった。