生きたまま埋めるのはかわいそうだよ

シュールな世界観がいいね~って棒読みで言って

とても寂しい気持ちなので書く。人と会うと、人によってどんなことを言えばいいのかを分けて考える必要がある。といってもそれほど上手く、個人個人に合わせた話題を提供できてる自信はないが・・・・・・。

自分の気持ちを正直に書くことは、ライオンがお腹を向けて寝転がるようなものだ。このブログでは日常会話にくらべるとはるかに腹部を露出している。それだけ人からのダメージにもろくなっているわけだ。嘲笑や侮蔑は内臓にまで響く打撃となる。僕の大好きなアートスクールの木下理樹は「音楽を通して自分をさらけだす・・・・・・ことのみに、執着してきました。」と語っていた。そのことのリスクはデカい。2ちゃんねるでもみれば、毛足の長いカーペットに隠れた大量のガラスの破片みたいに悪意が散らばっていて、血だらけになってしまうだろう。

ちょっと比喩に酔ってしまったが、せっかく考えたのに消すのももったいないから一応残しておこう。

先日自分の独り言を録って公開してみた。これは僕としては「自撮りをさらすこと」くらいの踏み込んだ自己主張だったように思える。自撮りをさらすことの動機とは、だいたいが、褒めてもらうこと、かまってもらうことにあるだろう。僕も人から面白いと言われたくていろんなことをしている。しかし「たいしておもしろくないけど(笑)」みたいな留保をいつもつけてしまう。「ブスだけど自撮りさらしまーすwww」みたいなもんだ。「この私可愛くない?」ぐらいの自信があったほうがまだ見る側としても気分がいい気がする。

僕はどういうことがしたいのかというと、「いかにして一人の夜を乗り切るのか」というテーマにこたえるようなことがしたいのだ。今のところそれは十分にできてるとは言えない。そんなことは実現できずに、いままで数多くのことを諦めてきたように、二つの目からハイライトを失い愚痴を吐くようになるのかもしれない。

文章を書くことは、互いを認識しあうことなく友達になることを可能とする。僕は君の名前を知らない。君が読んでいるのは文章として表出された作られた「僕」でしかない。「僕」ではない現実の僕はこんな風に饒舌ではない。僕がその名も知らない君は、いまここに文章として存在する「僕」と、友達になってくれるだろうか。もちろん「僕」が差し出した手を無視したっていい。ティッシュ配りみたいなもんだ。君が「僕」をつまらないと思うことを誰も咎めることはできない。僕はいつもそのことばかりにおびえていたが、少しは強くならないといけない。