生きたまま埋めるのはかわいそうだよ

シュールな世界観がいいね~って棒読みで言って

つぶやきすぎると嫌な気持ちになる

つぶやきすぎると嫌な気持ちになる。あいつ今日もつぶやきまくってるよ。面白くないのにツイート多くて邪魔だなあ。そんな声が聞こえてきそうである。

Twitterにかじりついている人は、自然とTwitter以外のことをやる時間がなくなるので、「Twitterに関するツイート」しかできなくなってくる。これは貧しい。「Twitterに関するツイート」ばかりするようになってきたらスマホやパソコンを放置し、外に出かけよう。

結局、人と人が関わるところには、かならず気遣いが必要になってくるのだなあと思う。人の話を興味があるにしてもないにしても「うんうん」とニコニコ聞いてあげるのはやや体力がいる。しかし、僕も言いたいことがあって、聞いてもらうのだからお互い様だ。Twitterでつぶやきすぎてはいけないというのは、日常会話において自分の話ばっかりしてはいけないというのと同じだ。

しかしこうやって「コミュケーションに関する持論」みたいなのを展開し気持ちよくなっている僕ですが、全くしゃべるのが上手くなくて困る。

人と何を喋っていいのかわからないっていうのは昔からの僕の悩みだ。

いまだにこんなことを考えているなんて全く成長しないなと思う。考え方の変革みたいなのってどのように起こるのだろう。

女の子とよく遊んでいる知人がいるが、彼の会話の内容自体は別にそれほど面白いというわけではない。つまらないというわけではないのだが。

たとえばだけど、彼はなんかの会話の流れで「それって『ブルゾンちえみ』じゃん。『35億の』」みたいなことを言う。

いま喋ってた話とお笑い芸人を結びつけるという安易な笑いで、正直僕がブルゾンちえみをよく知らないということもあってそれほど面白くはないのだが、しかし、会話は途切れない。

書きながら気づいたが会話を途切らせないことが大事なのかもしれない。それは普段、必ず論理や結論があるような文章ばかり読んでる人間には難しい。

ロジックの展開のさせ方などに興味のある人にとっては、ただ単に横滑りを続ける意味のない会話は苦痛なのかもしれない。

ようは会話とは「マジカルバナナ」である。いま、「マジカルバナナ」がとっさに出てこなくて、「りんごといったら赤い」と入力して検索をかけて、「マジカルりんご」という単語がひっかかったので、「いや、りんごじゃなくてバナナだわ」と思って、「マジカルバナナ」にたどり着きました。

人生を一本の道にたとえることはよくあるけど、実は我々の人生は一本の道なんかではない。

本当に不思議なことだけど、現在という時間は次から次へと過去になり、それは失われていく。文字を書いた紙などは、残留することで、「過去の具現化」みたいなものとして存在を示す。でも基本的に過去っていうのは、記憶により担保されている。脳を損傷してしまえば、過去が失われることもあるだろう。

過去を失った人には「一本の道としての人生」という概念はもう理解できないのではないか。

時系列順にものごとを記すというのは、決してオーソドックスなやり方ではない気がする。たとえば、我々は朝起きて歯磨きをする。その歯ブラシの使い方というものは、ずっと前に習得したもので、毎朝歯磨きをするときにその記憶が呼び覚まされている。

また、自転車に乗るときは、大昔に習得した自転車の乗り方というものが、アプリを立ち上げるように呼び覚まされる。

何か行動を起こすたびにそれがトリガーとなって過去を呼び寄せる。もしくは、行動を起こす際に依拠するものが過去の記憶でしかない。

ということを考えると、人の人生はその都度その都度、過去を呼び寄せる、いわば「まつり縫い」のような形をしているのではないか。

正直自分でも伝わってる気がしないので今日はここで筆を置きます。最後の方は、そのチャラい知人の喋り方を参考にマジカルバナナ形式で文章を綴りました。