生きたまま埋めるのはかわいそうだよ

シュールな世界観がいいね~って棒読みで言って

サボり⑩

鎌倉に行くつもりで家を出たが、赤羽についたあたりでやはりやめることにした。
別に深い理由があるわけではない。ただ行かなくてもいいと思ったのだ。
湘南新宿ラインに乗って恵比寿に来た。
恵比寿のドトールで一休みしていると、現在、19歳であるはずの僕が、いつのまにか24歳の僕になっていた。僕は、大学を卒業して中小企業の営業職に就いたらしいが、どうやら鬱屈としているらしい。
仕事は大変ではない。サボっているからだ。しかしサボっているといっても要領のいい人のサボり方ではなく、単なる逃避としてのサボりであるため、営業成績は悪い。上司はもちろんそのことには勘付いているのだが、僕の自主性を尊重してか、遠回しにしか指摘してこない。いつ本気で怒られるのかがわからず、常に怯えながらサボり続けている。
会社の外では子供の小さな悪事自慢のように「今日はこれだけサボった」と吹聴して回っているが、そのことも、いつ上司に怒られるかわからない不安感を誤魔化しているだけなので、自分を情けなく思うだけだ。
そんなに後ろめたいと思うのならちゃんと仕事をすればいいじゃないかと誰もが思うだろうが、全くやる気が湧いてこない。
先ほど転職サイトに面談のメールを送った。しかし他の仕事がしたいわけでもない。
こうして思考をわかりやすい形で言葉にしてまとめるのは落ち着く。それ以外はTwitterを眺めるくらいしかやることはない。
いまこうして書いていることはすでに何百回と考えて、実際に活字にしたこともある思考に過ぎない。もしかしなくても、これを読んでいる人の大半は聞き飽きた話だろう。
こんなことはいくら考えても前に進めないとも思う。では、僕は実際に行動を始めるべきなのだろうか。
思考と行動の二項対立があるとして、ものを書くということはどちらに属するのだろうか。よく政治的な発言をする学者や評論家に対して、「そんな机上の空論を述べてないで実際に行動しろ」という人がいる。僕は、それはおかしいとも思うし、そうかもしれないとも思う。
僕だって政治的な発言をしてもいい。どれだけかっこいい思考を文章にして披露してもいい。でも僕は、親元も離れず、仕事もサボって、甘えた生活を送っている雑魚の市民なのだ。僕がどんなことを言っても説得力がない気がする。
以前にTwitterである人が言っていたが「反権力」を標榜しているような人が実家暮らしのブルジョワ文筆業者だったりするのだ。あと町田康も言っていたが、パンクというのは聞きたいと思う人が少ないので食っていけない。パンクをやるにはなんらかの副業をしなければならないので、結局生き様としてはパンクではない、と(生き様云々は町田康が言っていたのではなく僕の解釈だ)。
19歳の僕は思う。「24歳の俺の話長いなぁ」
24歳の僕は答える。「ごめんね。悪いけどこれまだまだ続くんだ。でも今日めずらしくこの後アポあるからいったん中断するね。じゃあまたあとで!」