生きたまま埋めるのはかわいそうだよ

シュールな世界観がいいね~って棒読みで言って

2022.09.23

・結局「他の誰でもないただ一人のおれという人間がここにいますよ」と言いたいだけなのかもしれない。現状、日記を書いているだけだが、なんらかの形で自己表現がしたいんだと思う。しかし、ただ「おれはここにいる!」ということが直ちにすぐれた表現になるなんてことはまずあり得ない。ラップとかまさにそうじゃないかと思う向きもあるだろうが、発声やフロウの組み立て方など、素人がなんの手がかりもなくできるものじゃない。

・「おれはここにいる」だけでは、すぐれた表現として成立しない。では、なにがいるかというと、「先行する文化への敬意」である。なんでもいいが、たとえば村上春樹の『風の歌を聴け』はただ春樹が自分の内側にあるパッションを発散することで成立しているわけではない。カート・ヴォネガットリチャード・ブローティガンスコット・フィッツジェラルドと言った先人。そして、浅倉久志藤本和子といった翻訳者により生み出された文体を踏まえて、『風の歌を聴け』が成り立っている。

・さて、おれはなにを表現しよう。いまでこそ多少人文書を読んだりするようになったものの、もともと僕は小説や漫画、ロックやヒップホップが好きなのであった。高校生くらいまでは小説家志望であった。いろいろな本や雑誌をパラパラと見ているうちに、佐々木敦の存在などを知ることになる。雑誌でいろんなカルチャーを紹介するライターになれたらいいなと思っていた。批評再生塾へ参加したのも、なにも批評がやりたかったわけではなく、漠然と文章を書きたいという気持ちがあったからだ。

・僕が何かを表現するとする。それがなんであったら、興味をもてるだろうか。僕が書いた小説、僕が描いた漫画、僕が作った音楽、といったものには、僕自身が興味を持てない。一周回ってシンプルにいろんなコンテンツに対するレビューをまとめてみようかと思う。僕だったら、「ある一人の人間が、その人が触れたコンテンツについて、縦横無尽に書いた雑誌」というものがあったら、欲しいと思う。フォロイーがそういうものを作って売ると言ったら、たぶん買う。

・当たり前だが、コンテンツに触れると、心が動いたり、感想が生まれたりする。それが起きないのなら、コンテンツとしては失格だ。そして、単におもしろい、つまらないといった感想を超えたものを表出できれば、それは批評と呼ばれることもあるだろう。そういうことをやりたいと思う。この日記はそのための助走である。

・本日のこの文章にはなんら新規性がない。いま僕は自己を発散しているだけだからだ。そうではなく、インプットをしなければならない。インプットして、それによりなにが生まれたのか。それを記述できるようになること。これが目標だ。

・さまざまなインプットを血や肉とし、単なる自分語りではない、有意義なアウトプットができるようになったとき、それをはじめて僕の表現と言えるのかもしれない。いまはまだその途上にいる。

・そんなことを午前中、コインランドリーに行ったりしつつ考えた。夜はギヨーム・ブラック『みんなのヴァカンス』を観た。もう深夜なので、あまり詳しく感想を書く気力はないが、よかった。矯正用マウスピースの場面と乱闘シーンは本作のハイライト。すべての登場人物に不器用さと心優しさがあり、暖かかった。『女っ気なし』といっしょやん!と思わなくもなかったり。