・普段見えてる世界だけが世界の全てじゃないんだということを知りたい。ただ、だからといってたとえばセレブの生活を見たいかというと、全然興味はない。ゲットーの生活は見たい。自分で言っといてなんだが、これは明らかに暴力的な発想だと思う。
・ある悲惨な光景があったとして、それを見なかったことにするのと、見ようとすることの、どちらが残酷なのだろうか。たとえば、僕は街で事故や事件があって、人だかりができているときは、ほんとは興味はあるけど、なんか浅ましさを感じて見ないようにする。
・『ザ・ノンフィクション』とかによく低所得層の人々が映ることがあり、こちらとしては胸を痛めながら見ているつもりなのだが、でもこれってなんらかの収奪じゃない?とも思ってしまったりもするのだ。でも、かといって、たとえば貧困を描いたドキュメンタリーがあったとして、それを「なにかを収奪しているような、自身の暴力性を意識してしまうからよくない」と判断し見ないことにするのが正しいのか?見ないという判断をすることは、それはそれで、事なかれ主義的にも感じてしまう。
・ヒップホップの受容とかにも完全にこの問題が絡んでくる。あと、「世界からのサプライズ動画」とかにも。
・話は変わるが、男性の自撮りはなんかむりって思ってしまうのは、ホモフォビアなんだろうな。ほんとは誰もが当たり前に自撮りを上げられればいいのだが。マユリカの結婚式のネタで「はるか、ウェディングドレスきれい〜!🥺」「マサシ、タキシードかっこいい〜!🥺」「めずらしい人!」というくだりがあって、正直爆笑してしまうのだが、ほんとは男でもタキシードかっこいいと言える社会の方がいいんだよなあ。
・またまた話は変わるが、もはや女性に「これおもしろいよ」とか「これおすすめだよ」ということ自体がキモいのかもしれないと思い始めた。霊臨の新曲「outro」ではクリーピーナッツを聴く女の子が自分の活動に興味を示さないというリリックがあり、まあここまではよくある話だ。そのあとの、女の子がテニプリの忍足侑士のキャラソンを勧めてきたから、「これTOKONA-Xのフロウじゃん」と返信したら既読がつかなかった……というくだりが秀逸。
・なんかもう人に「ねーねー聞いて」ということ自体がだるいよなあ。
・久しぶりに分量のある日記になってよかったが、もっと考えなくてはならないことがあるような気がする。仕事に飲まれないことは大事だ。昼飯とか便所とかの際にふと頭をよぎることにひらめきがあったりする。仕事の最中にも仕事と関係ないことを考えよう。