羽目の外し方①
2年間働いた会社を辞めた。最後の2週間ほどは有給休暇をもらっていた。その2週間の最終日に、会社から貸与されていたスマートフォン等の備品を返却することになっていた。「何時でもいいよ」とのことだったので、私は昼過ぎにのんびりと会社に行った。社員はみな外回りに出ていたので、日中事務所は閑散としていた。スマホ等の返却を済ませ、5,6人に「今までありがとうございました」と挨拶した。会社を出た。
よく晴れた春の一日だった。降り注ぐ暖かな日差しが、まるで私の退職を祝福してくれているようだ。という風に、脳内でモノローグを当ててみたが、実際に祝福してるようだと思ったわけではない。というか、自然が人間を祝福するなんていうことは小説などで用いられる修辞技法でしかない。私の人生は小説ではない。しかし、天気がよく、気分もよかったのは事実だ。
会社を出た私は、大森駅の中にある書店に向かった。私は暇さえあれば書店に足を運んでいた。営業中もしょっちゅう書店にいた。なぜだろうか。ただただ本が好きだったのだと思う。本を読むことは人と話すことより楽しかった。本は私が何者であるかなど知らないからだ。本は、モノだ。人間を認知することはない。だから私は本を寝っ転がって読むこともできるし、鼻をほじりながら読むこともできる。『星の王子様』を、私は冒頭しか読んだことがないが、「この本を寝っ転がって読まないでほしい」と書いてあった気がする。大きなお世話だ。星の王子様は絶対に寝っ転がって読んでやるべきである。
話が逸れたが、本を読むとき、本は私を見つめない。私が本を読むだけ。しかし人と会話をするとき、相手は私を見つめる。それが嫌なのだ。私はなぜだか知らないが四六時中あくびをしている。退屈じゃなくてもあくびが出てしまう。会話中は必死にあくびをかみ殺すが、本当はあくびしたい。「人前であくびをするのは、退屈であることの表れ」という知識を人々が共有しているせいで、私は自由にあくびができない。もっというと私は相槌を打ちたくない。「なるほど」「そうなんですね」「そうですよね」「たしかに」等を会話に挟み込まないと、話を聞いていないことになる。しかし、私は相手の発した言葉を脳内で処理するのにものすごく時間とエネルギーを消費する性質(たち)なので、相槌などに力を割きたくないのだ。「じゃあおまえは会話中、話し相手が一切相槌してくれなくても気にしないのか」と問われたら、それは気にする。相手には相槌を打ってほしいと思っている。とにかく私には会話というものが過剰に高速なものであり、困難を感じており、苦手なのだ。
それに比べて本は良い。本を開けば、それがなにかしらの世界へのゲートになっている。そう思うことに疑いはなかった。人と関わることが苦手なのに、営業という慣れない仕事をすることへの違和感から、「俺が本当に生きる世界は本の周辺にある」と信じていた。そして、信じることを辞められなかったからこそ、仕事は耐え難いものになり、辞めてしまったのだと思う。