生きたまま埋めるのはかわいそうだよ

シュールな世界観がいいね~って棒読みで言って

羽目の外し方②

目覚まし時計のいらない日々が始まった。「今日から無職です」と試しにTwitterでつぶやいてみたが、さほど反応はない。同年代の人々は、多くが学生や社会人として、自分のやるべきことに取り組んでいるからだ。試しに街を出歩いてみる。近所の公園では、ビビッドな色の帽子を被り、水色のスモックを着た保育園か幼稚園の子どもたちが、20人くらい、小鳥みたいにはしゃぎまわっている。私は25歳で、これくらいの子どもがいてもおかしくない。それにもかかわらず、実家で親の世話になりながら、無職として暮らしている。子どものことを考えてもいいのに、大人にすらなれていない。後ろめたい気持ちが生まれそうになるが、まだ無職1日目であることだし、心の健康を考えて深く考えないことにした。

電車に乗ってシネコンへ向かった。平日の空いた映画館で映画を観るのは、仕事をしていたときからの夢だった。男女が寝るシーンを観ながら、もう長いことこういうことをしていない、たぶん2年くらいしていない、と思った。性行為とは、どのようなものであったか、記憶を取り戻そうと躍起になっているうちに、画面上ではマフィアが喫茶店のドアを蹴破り激しい銃撃戦が始まった。そのうるさい音を聴いた瞬間「いまセックスのことを考えてる場合じゃない!」と我に帰った。これが私の映画の見方だ。

シネコンを出て、奥様方がランチをしている様子を横目で見ながら、ショッピングモール内をスマートフォン片手に闊歩した。ランチ奥様を見ることとスマホを見ることを同時に行うことができるのか?という疑問が読者の脳裏に浮かんだかもしれない。歩きスマホという行為の名称が2018年である現在、浸透しきって久しい。しかし、歩きスマホという行為は、「普通に歩くよりは視界が狭められて危険」であることに間違いないが、「視界が全てスマホ画面になっている」わけではない。そのところをよくわかってない老人などが、「歩きスマホは危険!」という義憤に駆られてわざとぶつかってくることもあると聞く。彼らは自己の行為を「啓蒙」と捉えているのかもしれないが、要するに彼らは自分と違うことをやっている人、自分にはできないことをやっている人が嫌いなだけである。しかもスマホというものは「便利」であるらしく、それを使えないことで「世間」から「置いてかれる」という危惧もあるため、ますますルサンチマンが増幅するだろう。私にもその気持ちはわかる。

私は実業家や投資家などの資本家が嫌いで、彼らがよく「自分がいかにして成功したか」というエッセイだか自伝だかわからない書物を一定の出版社から刊行しているのを心底バカにしているのだが、彼らが私には想像もつかないような豊かな生活を送っていることには間違いない。高層ビルの最上階で夜景を観ながら立ちバックをしていることが推測される。立ちバックをしている途中に足腰が疲れてしまって「やっぱり普通にベッドやろうか」と言い出したいが、そこは資本家としてのプライドがあるので、「資本家たるもの、立ちバックの一つや二つ満足にこなせずしてどうする」と奮起するものの、その熱意から動きが激しくなりすぎて、太ももの筋肉をつり、相手もろとも床に倒れ込んでしまったりしているのだろう。このように妄想の中で資本家を過剰に愚かな存在として描いてしまうくらいなのだが、高層ビルの最上階で夜景を観ながら立ちバック、できるか、できないか、どちらの方がいいかを考えてみると、実際行動に移すかは別として、「その気になればいつだって高層ビルの最上階で夜景を観ながら立ちバックできる」そんな時間と金の余裕をもった人の方が豊かな気もする。

そう考えると、老人も、歩きスマホの人を攻撃するばかりでなく、実際にスマホをもってみるべきである。私も高層ビルの最上階で夜景を観ながら立ちバックできるだけの余裕を手に入れてから、再度、資本家批判を行いたいか、自分に問い質してみるべきなのだ。

話が脱線したが、歩きスマホをしている人は、思ったより周りが見えている。それが言いたかった。だから間違いなく奥様はランチを楽しんでいたし、私は歩きながらスマホを見ていた。TwitterにDMが来ていた。このDM(ダイレクト・メッセージ)を、Twitterを知らない老人や、未来の読者のために説明すると、みんながワイワイしている公共空間で、こっそりと二人だけの内緒話をするようなことと考えてくれていい。甘美だ。DMは鬱野という最近知り合った人からだった。

「暇だったら店来ませんか?」

鬱野は西荻窪で時々バーの店員をやっているらしかった。私は鬱野がどんな顔をしているのかも知らなかった。