生きたまま埋めるのはかわいそうだよ

シュールな世界観がいいね~って棒読みで言って

羽目の外し方⑧

鬱野たちとの会合がお開きになり、「ではまた」と挨拶して吉祥寺駅エスカレーターを登りながら私は全員のSNSアカウントをブロックした。今日会った誰とも、それ以降連絡を取ることはなかった。

いま私は地元の街を歩いている。街を歩いていると、われわれがやがて死んでいくように街もまた死ぬ可能性があると思う。建物が建設されたり、壊されたり、道路が整備されたり、災害で地割れが起きたり。建物が建つのは人為的要因で、地震が起きるのは自然的要因だが、そういったさまざまな複合的な力によって街は形を変える。昨日酒を飲み過ぎたから頭が痛い、というとき、酒を飲み過ぎたのは私のせいだが、頭が痛むのは、脳内の血管が膨張してるだとか、私にはコントロール不能なことが要因だ。権力者がたった一人ではデモを鎮圧できないように、私も私の身体を制御しきれない。そういった意味で、私は「一人」ではないのかもしれない。街が、複合的要因によって成り立つように、細胞も一人一人存在していて、ただ私の自我がその代表者、市長のようなものに過ぎないのかもしれない。テナントが入れ替わるように、細胞は新陳代謝する。

公園に遊具がある。遊園地のコーヒーカップに似ていて、乗って回転させることができる。木々がある。木々は植えられたものなのだろうけど、何年生きているのだろうか。私のこの問いかけは意味のない、感傷に過ぎないだろう。本当にこの公園の木がいつ植えられたものなのかを、文献を漁って調べたりなどしないのだから。私がいま何を語っているのか。それは、人と人との関わり合いについて語ることをやめ、他のことを語ろうとしているのだ。しかし、公園の遊具だとか、木だとか、そういったものを語ろうとしても結局、自分が「人付き合いを諦めて一人で生きようとしている」その事実を黙説法的に示唆していることにしかならない。

私の悩みとかそういうことが一番つまらないと昔誰かに言われた。それを言ったのは田島くんだったかもしれない。田島くんは誰よりも遊戯王カードを持っていて、教師の息子だった。金持ちの祖母に小遣いをもらって、昔は大人しいオタクっぽいやつだったのに、どんどんチャラ男になっていった。私にはショックだった。しかし、小学校のとき埋めたタイムカプセルを開ける式典のときのことだ。10年ぶりくらいにあった田島くんが、脱色してズタズタに傷んだ長髪に、上下ジャージというスタイルで現れ、体育館のピアノの前に座り、美しい伴奏を弾き始めたとき、私は彼の中で律動する響きに感動せずにはいられなかった。われわれは、形のあるものによって、形のないものを作り、形のないものが、われわれ同士の間を伝わる。金髪のチャラ男という形のあるものは、そんな形であることなどお構いなしに、美しい音楽を奏でる。音楽には形がない。愛にも形がない。そういうなんだかわけのわからないもののために、肉体は使ったり使われたりする。

私の言ってることは伝わっているだろうか。伝わりはするが、面白くはない。そういった意見もあるかもしれない。文学史を遡ると、作者が作中に顔を出すのはそう珍しいことではない。それはさておき、私は何か変化を求めていたわけだが、鬱野と出会うことで何かが変わったかというと、何も変わらなかった。私が変わるために必要なのは、他者ではない。もしかしたら、私に必要なのは変化ではないのかもしれない。それでは、ここでこの話は終わります。さようなら。